2011年09月27日
学校教育法は昭和22年に制定された。戦争直後のことで世の中は混乱し、食べるものもなく、すさんだ状態。大人たち、特に政治家、文部科学省はせめて子供たちだけには、善悪正義を教えて@「性行不良の生徒、授業の妨げ等をする生徒には、学校教育法第11条、懲戒、懲戒処分、第26条(現35条)出席停止の措置をしていた」いじめなど加害行為があれば、加害者はダメ、許さない事だと皆の前で叱られ、いじめの継続を断ち切っていたから、いじめは深刻にならなかった。いじめによる不登校、いじめ自殺者は出なかった。被害者を守っていたので信頼関係ができて生徒は安心して、いじめを訴えてきた、気が付かなかったという教師はいなかった。早期発見やアンケート調査は必要なかった。
昭和50年代になった頃、ある政治家が文部科学省に対して、善悪を教えないように言った。みんなで並んでゴールイン、仲良くしなさいの指導。いじめは喧嘩、トラブルと捉えて、いじめと捉えないようにする。いじめの訴えがあっても調べないで、いじめは無かったことにする。このように、文部科学省が容認しているのだから、教師はいじめがあっても見て見ぬふり、いじめを堂々と放置するために、いじめは深刻になっていく、そのようになった状態を安全配慮義務違反の判決では、教師がいじめをいじめと捉えないために、いじめは深刻になっていった。
息子、秀猛の裁判の認定では、1年の入学式の日から2年10ヶ月教師がいじめをいじめと捉えないために、いじめは深刻になっていった。3年の2学期からの恐喝は悪質であった。秀猛はそのいじめから永久に逃れる手段として自殺した、とある。昭和50年代から、いじめ自殺が目につくようになった。昭和61年鹿川君は、いじめが無くなるように願って書いた。遺書には「俺が死んだからといって他の奴が犠牲になったら意味ないじゃないか」福岡の的場君は「これは自殺じゃない、他殺だ。お父さん、お母さん、僕は天国から見ているから墓参りに来てね」と遺書に書いている。息子、秀猛は先生に何回いじめを訴えても、いじめと捉えなかった。いじめは深刻になって自殺に至った。遺書を残した生徒たちは二度と自分のような犠牲者が出ないように願って自殺している。しかし、大半の生徒は遺書を書く気力も無くし、憔悴しきって、この世に未練を残して、一人寂しく自殺している。その数、年間230~320人。不登校生13万人、保健室登校10万人、適用指導教室30万人、合計53万人の生徒たちは義務教育も受けられないでいる。いじめの件数は文部科学省の発表では10万人を切っているが、実際は桁が2ケタ違っている。文部科学省は今年に入って、真剣に話を聞いてくれるようになりました。
文部科学省が大きく変わっていくことを期待して今後は活動していきます。
〇2月8日の面談において文部科学省の受け取り方と実際に伝えたこと。
〇文部科学省に送った6月30日いじめを無くすための今後の課題。
〇一部訂正はあったが文部科学省から間違いはないと確認のファックスが送られてきた。